若狭湾は日本海側の有数な漁場であり、若狭は古代から伊勢などとともに宮廷に食物を貢ぐ「御食国(みつけくに)」と呼ばれていた。若狭の小浜と近江の今津をむすぶ道はその距離をとって九里半街道と言われていたが、この街道の国境の若狭寄りにあるのが熊川宿である。熊川宿をすぎて保坂で九里半街道を南に折れ朽木、大原をへて京にいたる道が若狭街道で、京と若狭を行き来する要路であった。
いわゆる「鯖街道」というのは、この若狭街道のほか、琵琶湖沿いの西近江路、琵琶湖の水運を利用する路、最短経路でもある根来・針畑越え、周山街道を通る最西端の路など四通りのルートがあり、これらを総称して「鯖街道」と呼ぶということではあるが、狭義では熊川宿を経る若狭街道がそれにあたるといってもよいようである。
小浜藩主であった浅野長政は交通の要衝地としての熊川の重要性を鑑みて、1589年(天正17年)に「諸役免除」とし、以来熊川は問屋(荷継ぎ)業で栄え、江戸時代の最盛時には戸数200をこえていたという(ちなみに現在は約100戸)。
熊川宿の特徴は、家並みの前を小幅の清流がゆるやかな曲線をなす街道とともに宿の端から端までおよそ1km余続くことで、心地よい水音を耳にしながら、時を経た家々の移りゆくさまを眺めて歩を進めるのはある意味至福の時間かもしれない。
建物に目を移すと、ここは平入りや妻入り、真壁造や塗込造、平屋に本二階や厨子二階など、実に多様な建築様式が混在している。京の雅な雰囲気と、山間の降雪に対応した機能性、港町の純朴さなど様々な趣がここに集積されたのだろうか。いずれにしても江戸時代から戦前に建てられた々が軒をつらねる風景は格別であり、いわゆる伝建地区(重要伝統的建造物群保存地区)に指定されている。
1858年(安政5年)に建てられた旧逸見勘兵衛住宅は、吉田桂二の設計により改修工事が行われ、宿泊機能を持った交流館として公開されている。また、旧熊川村役場の建物は資料館として熊川宿や鯖街道の歴史を物語る貴重な資料が展示されていて一見の価値がある。
案内役の女性が話してくれた、止まらない人口減少と1.5mもの雪が積もる冬季の生活の厳しさ、が熊川の現実の一面を物語っていて印象的であった。
(写真は左より街道の景観、家並みと清流、熊川宿資料館)
(2015/04/30)