興福寺の南円堂と北円堂

 梅雨のはざまの一日、興福寺の南円堂と北円堂を訪れた。


 無著・世親両像が置かれていることで知られている北円堂はこれまでも何回か尋ねているのだが、南円堂はずいぶん昔一度行ったきりでもう長いこと行っていなかった。理由は単純で、南円堂に安置されている康慶作の不空羂索観音菩薩像にあまり興味がわかないということと、更にこの3mを超す大きな像を見るには南円堂は小さすぎて、相当上を仰ぎ見る姿勢を余儀なくされることで、首に慢性的な痛みを抱えている者としては、これは耐え難い苦行となるのである。


 今回南円堂にも立ち寄ってみようと思ったのは、ある新聞記事がきっかけで、「南円堂に現在ある四天王像は、北円堂の弥勒如来や無著・世親像と同じカツラ材の寄木造りであることから、もともと北円堂にあったもので運慶作の可能性が高く、学会の有力説となっている」というものであった。確かに南円堂にもともとあった四天王像は中金堂(現在は仮金堂)に移されているというのは定説になっていた。一方、現在南円堂にある四天王像がもともとどこにあったのかについては、北円堂と東金堂の二説があり定まっていないと言われていたように記憶していたのだが、運慶作の可能性が高いとあっては、是非とももう一度見てみたいというなんとも軽薄な思いにとらわれたというところである。


 さてその四天王像を改めて見たのだが、これがどうもよくわからない。そもそも、四天王像というのは東西南北に置かれた守護神であるから、恐い顔をして武具を手にポーズを取るというのが一般的で、これを見分けるまでの知識と鑑識眼は私には備わっていない。ただ、持国天などは大変緊張感がみなぎっており、見る者に訴えかける力があり、相当腕のたつ仏師が作ったものであろうことは疑い得ないのだが、やはり四天王像のようなものは、戦いと言う現実的なテーマをモチーフとする限りにおいて、できあがった像は多義性や包容力に乏しいものとならざるを得ないように思う。その意味において、この像は運慶作でも、そうでなくとも個人的にはどちらでも構わないという気がする。


 ところで、今回改めて気づいたのだが、一般公開に際しての南円堂の入り口は八角形の北辺からとなっている。本尊である不空羂索観音菩薩像は堂の中央に東を向いて安置されており、正面から像を見ると右手からの逆光となってかなり見にくく、時計回りに堂内を廻っていくと像の後ろに来るまでずっとこの状態が続く。本来は像の正面にあたる東側扉を開けるべきであろうが、おそらく北円堂へのアプローチを考慮してこのような出入り口となっているのだろう。しかしながら、像を見るという観点からは明らかに失格である。単に公開すればよいというのではなく、見せる方法にも配慮がほしいものだと思った次第であった。


 南円堂の後、もちろん北円堂にも寄ったのだが、こちらは一歩足を踏み入れ、中央の弥勒如来と左右の無著・世親像を目にしたとき、なんとも言えぬ幸福感に満たされる。静溢で豊かな時間が流れていると感じられ、実におだやかな気持ちになる。像と堂のスケール感がマッチしていることもさることながら、それはひとえに無著像のきりっと結んだ口と遠くをみるまなざしによるものなのだろうと今まで思っていたのだが、今回改めて中央の弥勒如来像の存在が大きいことに気付いた。この像はそれまでの運慶作のみずみずしく、力感あふれる仏像と比べ、どこか枯淡な感じをうける。副島弘道がその著書で指摘しているように、運慶は時代が力強さやたくましさといった外向的な仏像から、内省的な深みのある仏像を求めていることに気づいていたかどうかはともかく、運慶自身の胸中に、動よりも静に向かう表現の転換という考えが去来していたことを北円堂の像

は示しているように思う。そうしてみると南円堂の四天王像も躍動的な表現ながら何やら見る者を畏怖させるような奥深さを持っているとも言える。


 ところで現在北円堂に置かれている四天王像は平安時代のもので、弥勒如来や無著・世親像とはかなり異なる雰囲気を持っている。現在の南円堂の四天王像がもともと北円堂に置かれていたものだということであれば、北円堂に移してはどうだろうか。もちろん、南円堂には仮金堂の四天王像を持ってくるのである。問題は、現在工事中の中金堂が完成した時四天王像はどうするかということであるが、申し訳ないがそれは私の知るところではない。


(写真は左から南円堂、持国天像と不空羂索観音菩薩像-古寺巡礼「興福寺」より、北円堂、世親像・弥勒如来像・無著像-興福寺パンフレットより)

(2013/06/05)