西国街道の郡山宿本陣

 江戸時代、京都から下関に至る街道は西国街道と呼ばれ、文字通り西国の主要街道のひとつであった。このうち京から西宮までの区間を狭義の西国街道と呼ぶこともあったようで、郡山宿はこの(狭義の)西国街道のほぼ中間にあたることから、西国大名の参勤交代の休憩・宿泊地として大いに利用された。


 江戸時代に建てられた郡山宿の本陣は、ほぼそのまま現在も残っており、しかも当主が生活しているという全国的に見ても極めて貴重な建物である。通常は団体での予約のみの公開となっているのだが、春と秋の年2回、一定期間に限り一般公開しており、3月の初めに見学に行ってきた。


 西国街道に面した主屋は厨子造りの平屋で、入母屋の大きな瓦屋根が大変美しい。主屋の西側に本陣の正門である御成門(おなりもん)があり、この門をはいると、左手に椿の木がある。現在のものは二代目とのことであるが、江戸時代には五色の花を咲かせた椿があったことから「椿の本陣」と呼ばれていたと言われる。


 式台を上がった玄関の間の正面には2間巾の大きな床があり、部屋の中央には、槍を置くための棚が往時のまま天井から下がっている。ここには、本陣の頃の資料がたくさん展示されており、宿帳には、刃傷事件を起こす前年に宿泊した浅野内匠頭や、浅野家断絶の申し渡しのため赤穂に赴いた脇坂淡路守の記録も残されているとのことである。各宿場から江戸までの里程表が展示されており、これは現在の高速道路のインターチェンジ間の距離と料金を表にしたものと全く同じであった。また、明治の中頃、祭りののぼりが一斉に立てられた本陣前の西国街道を背にした現当主の祖父の子供時代の写真からは、往時の様子が偲ばれる。


 玄関の間からは廊下の間を隔てて、上段の間と平の間に分かれる。廊下の間と上段の間は格式を重んじた書院造りになっているのは当然であるが、平の間は長押を用いず、棹縁天井の棹に面皮材を用いるとか、欄間を下地窓とするなど数寄屋風の造りとなっているのは意外な感じがした。ガラス戸の桟が本の字になっていたのだが、これは後世の単なる遊び心なのだろうか。面白いのは湯殿で、床に排水溝がとってあるだけの部屋。浴槽や風呂桶は各大名一行が持参したらしい。


 主屋に入ると、玄関から奥のカマヤ(台所)にかけて土間が広がり、カマヤには黒光りのする五つ口の大きなかまどが中央にあり、構造材があらわしになった天井はやはり迫力がある。


 主屋から奥の中庭に出ると、納屋、茶室、米蔵が建ち並んでいる。平成13年(2001年)に主屋と付属屋が全面改修されて、納屋と米蔵は展示室に模様替えされ、西国街道や郡山宿、本陣の仕事などを模型や映像、展示パネルで紹介している。


 これだけ大きな本陣が、付属屋を含めてほとんど江戸時代のまま残っているという例は少ないのではないだろうか。展示物や資料を目にしていると、なんだか江戸時代にタイムスリップしたような気がしてきた。


(写真は左より道路側外観、上段の間、主屋土間)

(2013/04/15)