新島邸と八重の桜

 ある本の中に、同志社を開いた新島襄の旧邸には日本最初期の洋風便所があるということが書かれていた。昨年の秋下鴨の旧三井家別邸を見学したとき、そこの便所は日本最初の洋風便所ではないかという説明を受けていたので、早速確かめに行くこととした。


 新島旧邸は京都御所の東を南北に走る寺町通沿いの丸太町通近くにある。同志社大のキャンパスは御所の北側に位置しており、旧邸はこれとはやや離れたところにあるのはどうしてだろうと以前から思っていたのだが、そもそも、現在旧邸が建っている場所で新島襄が同志社英学校を開校したのが同志社の発祥で、その後、旧薩摩藩邸跡地であった御所の北側の現キャンパスがある場所に学校は移り、八重と結婚の後、明治11年(1878年)もとの建学の地に自宅を建設したということである。


 八重が主人公の大河ドラマが放送中ということもあり、平日にもかかわらず多くの人が訪れていた。


 木造2階建て、寄棟瓦葺き、外観はベランダが周囲にまわるコロニアル様式で、1階は応接間、食堂、居間、書斎がほぼ正方形平面の中に四間取りのような形にとられ、北側は水回り諸室が下屋で設けられている。2階は1階と同じ部屋割で、居間と3寝室となっている。1、2階共ベランダは東、南、西にめぐらされて、南の奥行きは東西に比べて少し深いものとなっているのは、アウターリビング的扱いというところであろう。内部は真壁造りで、床は板貼り、壁は漆喰塗(?)、天井はクロス貼り。欄間や襖が用いられて、椅子式の洋風生活ながら、和洋折衷

のデザインとなっている。


 この住居は、同志社英学校の教師であったW・テイラーという人物の助言のもと、新島自身が設計したのではないかと言われているが、とても合理的に計画されていることに驚いた。例えば、水廻り諸室は当時一般的に土間であるところを、床張りとしているとか、台所と食堂間にハッチ式の配膳棚が造りつけられていることなどは家事労働の軽減を図ったものであろう。また、1階応接間に設けられた暖炉からダクトで他の部屋に温風を送るといういわゆるセントラルヒーティングが計画されていたり、外壁の開口部はガラス戸とガラリ戸の二重になっていて、おそらく夏の夜はガラリ戸のみで通風を確保していたと思われることなどは、暑さ寒さの厳しい京都の気候に合わせた工夫であろう。外壁や窓の断熱性能は劣るであろうことから、これを改めて、設備機器を入れ替え

れば現在でもそのまま使えそうな住まいとなっている。


 ところで、留学生活が長かった新島がアメリカの住生活に関する知識をかなり持ち得ていたことは想像に難くないが、そこに欄間による採光とか、襖による間仕切りとかを取り入れてほとんど違和感なくまとめあげているのは一体誰のアイデアなのだろうか。おそらく、この住まいは新島自身と、テイラーと施工にあたった大工の合作なのだろうと思う。


 忘れていたが、洋式トイレは確かにあった。旧三井家別邸のトイレは陶器製の便器がはめ込まれた水洗式のものだが、こちらは1段高くなった床に穴があいているだけの何ともシンプルなもの。旧三井家別邸の移築が大正11年で、新島邸の建設が明治11年であるから、腰掛ける形式ということで言えば、こちらのほうがずいぶん早いということになる。座ることはできなかったのでよくわからないが、見たところ穴の位置が少し後ろすぎるのではないかと思ったりした。


 帰りに出町柳近くの寺で満開のしだれ桜を堪能。ソメイヨシノはまだ5分咲きといったところだが(3月27日現在)、これは早咲きのしだれ桜なので1週間ほど早く満開となるようで、割合人も少なく、わたしの好きな桜のひとつとなっている。八重の桜ではないが、八重の住まいと桜を楽しんだ春の日であった。


(写真は左より新島旧邸外観、応接室、トイレ-上:新島旧邸、下:旧三井家下鴨別邸)

(2013/03/31)