読書雑記「幕末下級武士の絵日記」

 現在の埼玉県行田市にあたる地域は江戸時代忍(おし)藩10万石の領地であった。忍城は15世紀後半地元の豪族であった成田氏によって築かれ、その後江戸時代に入部した阿部氏のとき全容が整ったとされている。もともと沼地に島が点在する地形であったところを、島に橋を渡す形で城を築いたため、いわゆる自然の要害となり、極めて攻めにくい城であったようで、秀吉が関東平定の際に派遣した、石田三成を総大将とする一軍が近くを流れる利根川を利用して水攻めを行うものの落城することなく、以来忍の浮城と言われることとなったと伝えられている。この攻防をもとに書かれたのが和田竜の「のぼうの城」であるり、最近映画化もされている。


 江戸時代の末期この忍藩に尾崎石城という下級武士がいた。庄内藩士浅井勝右衛の子として生まれ、本名は隼之助(はやのすけ)で、石城は字(あざな)である。忍藩の尾崎家の養子となり馬廻役で百石の中級身分であったのだが、安政4年(1857年)29才のときに上書(藩の上層部に意見具申)して藩政を論じたため、10人扶持の下級身分に格下げされたうえ蟄居を命ぜられた。おそらく養子に入った家を出されたのであろう。妹邦子の嫁ぎ先であった別の尾崎家(彼が養子に入った尾崎家とおそらく縁戚関係にあたるのだろう)に居候を余儀なくされる身となった。


 この尾崎石城が文久元年(1861年、石城33才)から翌2年までの178日間の生活を記した絵日記が「石城日記・全7冊」として残されており(慶応義塾大学文学部古文書室蔵)、その一部を抜粋して説明を加えたものが大岡敏昭の「幕末下級武士の絵日記」である。


 近世以前に書かれた日記で日常生活について触れたものは少ないのだが、石城日記は絵日記であり、彼の生活空間内における人々の暮らしの様子が実に丹念に生きいきと描かれている。とりわけ食事や酒宴、家族の団欒、年中行事といったものがどういうふうに行われていたかが一目でわかり、そこに描き込まれた家財道具や什器、住まいの設えからはものの有り様までもが伝わってくる。彼は文才と画才に恵まれ、随筆や詩を書き屏風絵や襖絵も描いて友人知人から注文を受けていたほどであった。


 カメラやビデオといった記録機器のなかった江戸時代以前の映像アーカイブとしては、古くは絵巻物、時代が下って浮世絵をはじめとする絵師の描いたものといったところしかない。いきおい、現代に生きる我々がもつ当時のイメージと言えば、テレビや映画の時代劇をベースとしたものにならざるを得ない。ところがそうしたものはあくまで創作であり、決してドキュメンタリーではないのであるから、映像には自ずと限界がある。合戦や大名行列は絵になっても、一般庶民の日常生活はそうはいかないのである。


 ところが、この石城日記には一般庶民とまではいかないものの、下級武士の日常生活そのものが生きいきと描かれている。居候である石城を暖かく迎える尾崎家の食事風景、酒好きな石城とその友人たちの三日とあけずに開かれる酒宴、友人宅での語らいの様子など絵を見るものがあたかもその場に居合わせるかのような錯覚におちいるほど、石城の絵は巧みで雰囲気が伝わってくる。


 建築的な話を言えば、当時の下級武士の住まいにおいて、縁(側)が実に様々な場面に出てくること、かまどと言えば普通土間にあるものとばかり思うのだが、板間側から火をおこす寺での炊事場面があること、やぐら炬燵が重要な暖房器具として使われていることなど、改めて気づかされる点が至るところに見られる。


 この日記が書かれた文久2年(1862年)といえば、明治維新の6年前である。日記中には、義弟の進が藩内の熊谷を通る皇女和宮の警護に出立する朝の緊張した場面も描かれているが、尊王攘夷か開国かといった歴史の大きな流れの中で、変わることない日常生活が営まれていたことを再認識させられる。


 明治維新の年に石城は藩校の教頭に任ぜられ、その後、宮城県に招かれ大主典となり、明治7、8年(1874、5年)に任地の石巻で病没したと伝えられている。46、7才の生涯であった。


 なお、この石城日記は慶応大学文学部古文書室のサイトにて画像データとして公開されている。是非とも一見することをお勧めする。「幕末下級武士の絵日記」ではモノクロであるが、実物はきれいな彩色がなされており、よりリアリティーに富むものとなっている。

(2013/03/20)