重源さんお元気ですか

 少し前のことになるが、奈良国立博物館で開かれていた「頼朝と重源」展を見に行った。お目当てはなんといっても重源像で、今回の展覧会と内容のよく似た「重源」展が遠忌800年の2008年に同館で開かれており、このときも見に行っているので4年ぶりの再会ということになる。


 重源といえば東大寺再建の勧進僧として知られているが、ずいぶん昔学生の頃建築史の授業で、貫を多用し組み物を挿肘木とした大仏様、または天竺様と呼ばれる建築様式を用いたことを教えられ、いわゆる構造表現の先駆者のようなイメージを漠然と持っていたものであった。


 重源を改めて見直したのは、社会人になってしばらくしてから、兵庫県小野市にある浄土寺浄土堂を見たときである。これは、重源が播磨の国の別所として、東大寺に先立って大仏様で建てたものだが、非常に素っ気ない外観に比して、内部空間の豊かさというか、現代建築にも通ずるような空間演出が感じられることに大変驚いた記憶がある。浄土形式であるから東西方向に軸線が合わせられているのだが、西面の蔀戸を開け放つと光が差し込み、夕陽が沈む時刻には西日を背に受けた阿弥陀仏が朱色に塗られた柱や、梁が飛び交う空間の中で、光輝くのである。この有様をスペクタクルの演出と言わずになんと言ったらよいであろうか。


 このとき以来重源というのは一体如何なる人間で、どうしてこのような建築を創造できたのだろうかという疑問が頭から離れず、いつか調べてみたいと思いながらも元来の怠け癖のせいか、なんら進展をみずに今日に至っているのだが、2008年の展覧会で重源像を初めて目の当たりにした時、疑問のいくらかは解けたような気がした。何故かといえば、重源本人に会えたのだから。それほどこの像は写実的で、衣から出た首から顔にかけては皮膚の覆いがかけられたかのような現実感があるのだ。さらに感心したのはこのやせ細った老人の数珠を持つ手が実に骨太で大きなものであることで、これは明らかに肉体労働者の手であり、勧進僧としての重源は恐らく用材運搬の先頭に立って動くような人間であったのではないだろうか。「大変だったですねえ」と問いかければ、「ま

あ、何とか役割を果たせましたなあ」とでも返ってきそうな気がする。この像の製作者は不明ということであるが、この時代にこれほどの能力を持った仏師が運慶以外にいたであろうかと私は思う。この展覧会中にも、運慶作の瀧山寺の帝釈天立像が展示されていたが、やはり際立って優れているという感じがした。


 ところで2008年と今回の展覧会とも共通して展示内容は、絵と彫刻と古文書を通り一遍の解説とともに並べているだけのように思ったのだが、もっとわかりやすく面白いものにすることはできないものだろうか。例えば古文書は印刷書体になおしたものを併記するとか、像の照明方法を見直すとか工夫の余地はあるのではないだろうか。重源についても、彼の生涯、大仏様を導入した経緯やその後の建築様式の変遷などについて詳しい解説は全くなかった。また、今回の展示の中には、神護寺の源頼朝像があったのだが、これは、現在は別人であるという説が有力というようなことも聞くにもかかわらず、そのことに触れた解説は見当たらなかったのは何故であろうか。重源との再会は別として、展覧会自体は意欲的なものとは思えなかったことは残念であった。

(画像は、重源像は展覧会パンフレットより、浄土寺はWikipediaより)

(2012/09/25)