夏の終わり

 残暑厳しい折、何とも申し訳ない話だが、夏の終わりになると「太陽がいっぱい」という映画のことを思い出す。少し哀愁を帯びた映画のテーマ曲の旋律が頭のなかによみがえってくるのである。いうまでもなく、この映画は真夏の地中海のクルーザーの上で主な話が展開されていくのであるが、ニーノ・ロータによるもの哀しさを伴ったテーマ曲と、アラン・ドロンが演じる主人公の破滅を知らせる衝撃的なエンディングにより、宴のあとの寂しさが漂うようなイメージが強く残っていて、夏の終わりが来る頃になると不思議と思い起こされる。


 この映画が封切られたのは1960年であるから、私が初めて観たのはおそらく学生時代で、どこかの名画座だったのだと思うのだが、それからずいぶん後になってテレビの洋画劇場で再び観たとき、自分がおかしな思い込みをしていたことに気づいた。それまでこの映画はアラン・ドロン演じる貧乏な主人公と裕福な家に生まれた友人との対比、つまり子は親を選べないということを基本とした、人間のおかれた不条理をテーマとしているのだとばかり思い込んでいたのだが、テレビで再び観たときどうもそうではないような気がした。ルネ・クレマンはそんな哲学的なことを主題としているのではなく(ひょっとするとそういう考えもどこかにあったかもしれないが)、これは友人を殺して手に入れた夢の生活から一転破滅に至る若者を描いた単純なサスペンス映画なのだ。


 どうしてこんな思い込みをしたのだろうか。おそらく、この映画を最初に観た頃にカミュの「異邦人」を読んでいて、その主人公ムルソーの置かれた状況と、アラン・ドロン演じる映画の主人公とがシンクロして、更にムルソーの(人を殺したのは)「太陽のせいだ」という言葉と、アラン・ドロンの「太陽がいっぱいだ」という言葉が共鳴し、舞台も同じ地中海(沿岸)ということで、記憶の中でどこかごちゃまぜになっていたのだろう。


 その後、レンタルビデオで観ることもあったが、やはり単純なサスペンス映画であり、そうするとアラン・ドロンの美しい容貌も心なしか品の落ちた街場のチンピラのようにみえて少しがっかりした記憶がある。かといってこの映画が傑作であることは疑いようもなく、今でも私の好きな一本である。


 ところで、他の人はこの映画についてどんな感想をもっているのだろうかとネットで調べてみたところ、なんとこの映画の原作では男同士の愛情がベースにあるという解説に出会ってびっくりした。そうなるとこの映画は不条理映画からサスペンス映画、そしてホモ映画と変わることになるのだが、映画では設定を変えているとのことであるのでこれは早トチリ。ちなみに1999年のリメイク作品である「リプリー」ではより原作に近いということだが、残念ながらこちらはまだ観ていない。

(2012/09/05)