さくらんぼの思い出

 須賀敦子の「さくらんぼと運河とブリアンツア」というエッセイのなかに、ミラノには、さくらんぼは6月24日を過ぎると中に虫が入るから、その日までに食べないといけないという言いつたえがある、というくだりがあり、さくらんぼの季節になるといつも思い出す。


 もうずいぶん昔のことになるが、友人と二人でレンタカーを借りて、気ままなイタリア旅行を楽しんだことがある。ボローニャでおちあい、そこで借りたレンタカーで、ラベンナからシエナ、サンジミニャーノをまわり、ローマで車を返して帰国したのだが、確か6月だったはずで、ボローニャを出るとき、市庁舎近くの市場で買ったさくらんぼを食べながら、あっちへ行きこっちへ行きしながら、初夏のイタリアをラベンナまでかわるがわる運転したのは今思い返しても楽しい思い出である。


 さくらんぼは数百円で茶色い袋にいっぱいあった。洗わなくてもいいかな?などとつまらぬ心配をしながら、ひとつふたつ口に入れていたのがいつのまにかとまらなくなり、友人はハンドルを握りながら手を伸ばしてくるので気が気でなかったことを覚えている。


 それまで、さくらんぼなど別においしいとは思っていなかったのだが、これに味をしめて帰国後果物屋さんをのぞいてみると、驚いたことにイタリアで袋いっぱい買えたさくらんぼは、(多分)同じ値段でビニールパックひとつ、数十粒しかないのである。さすがに次々と口にいれることはできなくなり、一粒々々いったいこれはいくらになるのかと浅ましい考えをめぐらしながら、ゆっくりと味わって食べたのだが、どうもボローニャのさくらんぼほどうまくない。そんなばかな、一粒の単価はこっちのほうがずっと高いはずなのに一体どうしたことだろうと憤慨しながらも、その後私はさくらんぼの季節になるとビニールパックに入った少しばかりのさくらんぼ

を一粒々々口に入れている。


 さくらんぼにはアメリカ産のブラックチェリーと日本産の佐藤錦の特秀のLLというピンからキリがあるということもそのうちに知った。多分イタリアから帰ってすぐ買ったのは佐藤錦のなんとかというものだったのだろうが、箱に入った佐藤錦はこのところ手が届かないし、誰も贈ってくれないので生涯一度きりの高いさくらんぼだったのかもしれない。


 もう7月になったが、まださくらんぼはスーパーにあるのでときどき買って食べている。幸いなことに、虫の入ったのに当ったことはない。

(2012/07/05)